第9回 How to be a good “病院長”~経験から学ぶ その傾向と対策
石川 秀雄(医療法人えいしん会 岸和田リハビリテーション病院病院長)
※本記事は『病院』83巻9号(2024年9月号)pp 742-745を転載(一部改変)しております。病院経営の専門誌『病院』は“よい病院はどうあるべきかを研究する”雑誌です。ぜひ,併せてお読みください!
人事というのは運とタイミングである。
18年前,私は大阪大学医学部第三内科の人事で15年間ほど国立病院機構近畿中央胸部疾患センター(現・近畿中央呼吸器センター)に勤務し,循環器科医長として喀血に対するカテーテル治療である気管支動脈塞栓術(bronchial artery embolization:BAE)に没頭していた。が,そろそろ民間に出てみたいなあと思うようになっていた。近畿中央胸部疾患センターそのものは大好きであったが,準公務員という若干の窮屈さや給与へのいささかの不満などが主な理由である。
いまのような大手紹介業者などはなかった。いい話がどこかから来ないかなあと思っていたら,たまたま3つの民間病院からのヘッドハントが突然同時に来た。重なるときは重なるものである。いずれも南大阪の150床クラスの病院である。ライフワークとなりつつあったBAEは呼吸器領域の特殊な技術であり,近畿中央胸部疾患センターをやめるときはBAEをやめるときであろう,とずっと思っていた。しかし3つの病院のうち岸和田市の医療法人幸会喜多病院(現・医療法人えいしん会岸和田リハビリテーション病院)は血管造影室をゼロから作ってくれ,かつ近い将来の副院長または院長候補として迎えてくれるというのである。
■性急に決まった転職
しかし懸念点も多かった。某居酒屋チェーンが経営しているとか,地域の評判が緩和ケア以外はどうも芳しくなさそうだ,とかである。実は偶然にも数年前にこの病院の緩和ケア病棟で肺癌の父を看取ってもらっていたのだが,そのことを病院サイドが認識して声をかけてきたわけではなかった。ヘッドハントを受けたもう1つの病院も喜多病院の前に父が入院していた病院だった。この偶然は亡き父が私を新天地に導いてくれようとしているのではないか,という気がしていた。
喜多病院はケアミックス型の老人病院であり,岸和田市で訪問看護をしていた妻は評判の良くない病院なのでやめたほうがいいと,かなり強く言っていた。親しい鮨屋の大将には,「あんな評判の悪い病院に行かれるなんて,大丈夫だろうかと心配していたのですよ」と,喜多病院に移って数年経ってから言われた。
当時,医療法人幸会喜多病院を経営していた渡邉美樹代表(ワタミ株式会社)は若手経営者の旗手としてもてはやされ始めていた時期で,テレビ出演や書籍の出版などを積極的にされていた。その頃はまだ和民は大阪にはあまりなく認知度が低かったが,東京にはやたらたくさんあった。いろいろ迷いがあったが,血管造影室を新たに作ってまでBAEを継続させてくれるという提案が魅力的で,喜多病院に行くことを決めた。近畿中央胸部疾患センターの故・坂谷光則院長や大学医局には無理をお願いして円満に転職を認めていただいた。転職直前に渡邉美樹代表とお目にかかり,そのキラキラしたオーラに感動し,この人のもとで働きたいと心底思った。
こうして半年くらいの間にばたばたと転職が決まったが,その性急さは喜多病院側の苦しいお家事情によるものであった。親しくしていた堺市幹部に転職について事前に相談したところ,病院の運営は労働組合との関係性が大きな要素である,という予想外のアドバイスをいただき,実際敵対的な組合対策に苦労されている病院長を見たことがあるので,少しビビっていたが,喜多病院に組合は存在しないことがわかってホッとした。ワタミはその後,介護施設を大規模に展開したが,そのきっかけはこの喜多病院の経営だったのである。
■問題が多すぎてどこから手をつけていいかわからない
転職してみて唖然とした。当時,喜多病院は一般病床81床,療養病床60床,緩和ケア病床16床の計157床で,一般病棟は15対1の看護体制。常勤医は内科が院長と私を含めて3人,緩和ケア医が1人,整形外科医が2人,麻酔科医(ペインクリニック専門)が1人の計6人であったが,なんと私が就職した直後に内科常勤医が1人辞めることが決まっていたのである。つまり病院の大半である内科の患者さんを院長と私の2人で担当する羽目になったわけである。院長は療養病棟2つの全患者,私は一般病棟2つの全患者を担当し,40人もの患者さんを受け持つことになってしまった。
夜間診療や土曜の外来もあり,生涯で最もハードに働いた時期である。当時からのベストパートナーである小林克也事務長と夜間診療終了後に2人で空をあおぎながら「あの時はたいへんだったなあ,と笑顔で振り返れる時期が果たして来るのだろうか?」とため息をついたことをときどき思い出す(実際のところは,過去には興味がないのでそういうエピソードから断片的に過去の苦労を思い出すくらいで,普段はすっかり忘れている)。年俸は倍以上になったけど,エラいとこにきてしまったなあとつくづく思った。
赴任前から,事務長に「医局の誰が必要で誰が不要かを判断してほしい」と言われていたが,着任してみてクセの強い医師が多いことを知った。その後ワタミ本社の副社長が病院経営の直轄指揮をとられることになり,「どうですか医局は?」と聞かれて間髪を入れず「医局は伏魔殿です」と報告したことを覚えている。療養病棟がどういう性格の病棟なのか,それすらも知らずに来てしまったのである。毎月開催される経営会議では,それまでは見たこともない経営数値の洪水に拒否反応すら覚えたものであった。
■戻るも地獄,進むも地獄
転職した2005年に,建築中の29床回復期リハビリテーション新病棟の工事中止指示が副社長から出た。工事を再開するか,回復期リハビリテーション病棟(以下,回リハ病棟)への転換をやめるか再考せよ,ということであった。当時,私はまだ医局長であったが,副社長から意見を求められたものの,どっちがいいのかさっぱりわからなかった。それまで循環器医長・医療危機管理室長,あるいは西一階病棟の病棟医長として,一定程度の部署内マネジメントは行ってきたけれど,数人程度の部下がいるに過ぎないし,組織運営ましてや病院全体の経営なんて考えたこともなかった。そもそも回リハ病棟って初めて聞いたわけで,知識も経験も判断の根拠になるロジックもさっぱりわからなかった(ちなみに今では,患者向けに回リハ病棟での過ごし方について解説記事を書くに至っている1))。
そもそも当時はまだ「医者が金のことを議論するのは卑しい」という風土が残っていた。親しくしていた岸和田市の同規模の民間病院事務長に相談したら「ワタミは病院を潰す気か? 泉州地区は回リハの競合が多すぎる」と即座に否定されてびっくりした。そこで驚いた私は否定方向に回ったが,結局副社長によって回リハ病棟とする方向で工事再開が決定され,蓋を開けてみたら稼働率が高く収益性の高い病棟になっていった。その後,渡邊美樹代表が国会議員となり,政務官以上になったら兼業ができなくなるということで,2014年に現在の白川重雄会長を総帥とする生和会グループに売却された。
ちなみに2005年,喜多病院に転職した当時,筆者は医局長・診療医療部長として就任し,翌2006年に喀血・肺循環センター長,そして病院長となった。また,2006年に医療法人盈進会(えいしんかい)岸和田盈進会病院に病院名称を変更,2014年生和会グループに入り,その後,2018年に病院新築移転とともに,医療法人名をえいしん会に,病院名を岸和田リハビリテーション病院に変更した経緯がある。
また,当院の回リハ病棟は増床を重ね,病床総数157床のうち回リハ病棟29床を2015年6月から57床へ,ついで90床,105床,133床へと段階的に増床。そして2018年4月の新築移転を経て,同年9月,回リハ病棟を133床から140床へ増床し,さらに2020年より福澤正洋理事長のもと,157床全床を回リハ病棟として運営するようになった。いまや稼働率は100%を超え,常に入院待ち患者さんがおられ,多いときには入院40人待ちのこともある,「行列のできるリハビリテーション病院」となっている。
経営の専門家とおぼしき他病院の事務長の断定的判断は120%間違っていたこととなる。彼はうちのリハビリテーションの質の高さを十分に知らなかった。また生和会グループ白川重雄会長の稼働率・脳卒中比率・リハ提供単位数などの明快な数値目標を掲げての緻密で具体的な経営戦略のことなど,サラリーマン事務長には想像できなかったのだろう。結局「専門家」に相談しても,専門家もその知識と経験と常識の範囲内でしか判断ができない。責任と権限を共有していない評論家的意見は参考にはならない。自分の頭で考えるしかない。そう思うきっかけとなる体験だった。
■自分の頭で考えろ!
自分の頭で考えようと思った,もう1つのエピソードを紹介したい。当院の喀血・肺循環センターは半年の工期を経て完成したが,その成功の可能性は,多くの人に真っ向から否定された。ある有名医師に「あんな老人病院でカテーテル治療施設なんてやれるわけがない」,某病院の事務長に「そんな絵空事!」と言われたりするなど。
ところが,実際には,BAE累計3,800例という世界一の経験症例数との結果を出した。大学病院放射線科でもハードルが高い放射線科領域のトップジャール『Radiology』誌(2022年インパクトファクター19.7)などに複数の査読英語論文が掲載され2),2022年に出たCIRSE(Cardiovascular and Interventional Radiological Society of Europe:欧州のIVR学会)の世界初のBAEガイドライン3)ではわれわれの論文が3本も引用2, 4, 5)されるなど,質と量を誇る世界一のハイボリュームセンターになったと自負している6)。
喀血・肺循環センターの患者さんの半数は大阪府外からの受診であり日本中から岸和田まで来院される。四国からヘリコプターで来られた患者さんもおられる。この奇跡的成功は,喀血治療の長年のパートナーである北口和志喀血・肺循環センター運営課長と二人三脚で,こつこつと一例一例の喀血患者さんの治療を全力でやり続けたことによって実現した。講演はもちろん,日英のWikipediaにBAE項目を創って執筆し,テレビに出演するなど広報面も頑張った。1人でも多くの喀血患者さんと呼吸器内科医に知ってほしいという思いからである。
経営や医療の「専門家」とおぼしき人の意見は,どうしてあてにならなかったのか? 彼らには,われわれが持つBAE技術の専門性や将来性についての知識は欠如していた。それに彼らには新しいことにチャレンジした経験がなかったのかもしれない。結局,われわれの技術の特筆性について,最も知識と展望をもっているのはわれわれ自身なのである。そして相談された専門家は,われわれが持つ夢や情熱を共有しているわけではない。
自分の頭で考え,決断し,実行するのみ!である。
■新院長に向けて
元ボスの渡邉美樹代表は,よく「組織はトップで100%決まる」と話されていた。新たに院長に就任される先生に向けて,18年間の院長業を通して,私が重視するに至った考え方をいくつか共有したい。
1.「そう言うあなたが原因だ」─「『聞いてない』と言って事態を動かすことは,正しいやり方じゃない」
元総務相,故・鳩山邦夫氏のインタビュー(朝日新聞,2012年1月19日朝刊,p17)からの引用である。
自分に報告がないのは,自分の日頃の態度が原因である,という趣旨である。きちんと報告が上がる環境をつくることが重要で,田中角栄元首相や竹下登元首相などはいろんな人のいろんな情報を聞き,報告を受けていた。「いつでも誰でも来い」という姿勢で,彼らから「オレは聞いてない」なんて言葉を聞いたことはない,という。逆に,菅直人元首相は,すぐにイライラするから「イラ菅」と呼ばれていたが,イライラしている上司に報告がきちんと上がることは絶対にありません,という内容のインタビューである。
つまり,トップは常にフラットな態度で,常に部下の意見に耳を傾けることが大切である,と思っている。トップがフラットな態度を保ち続けていないとフラットな組織は生まれない。どんな職種でも10代の新人でも分け隔てなく接するようにしている。
2.「和顔愛語」─おだやかな顔と愛に満ちたおだやかな言葉
仏教用語で「わげんあいご」と読む。これは,上記の「フラットな態度」を補完するものである。どんな立場・年齢の職員とでもフラットにコミュニケーションをとる,というだけでは不十分なのである。どういうことか?
いくら広く職員に声をかけても,ぶっきらぼうだったりエラそうであったりしてはよくない。和顔愛語が必須条件である。トップは,少なくとも職場内では常に上機嫌であることが必要なのである。上機嫌なトップには報告が上がりやすいだけではない。現場からの提案も自由に上がってきやすくなる。提案のボトムアップが自由に行われる職場の空気感は組織の活性化に重要である。
自院の例を挙げよう。当院の元セラピストの北裏真己前副部長が,セラピストのリクルートにおけるインスタグラムの重要性を提案し,また当院リハビリテーション副部長の渕上健が,稼働率100%をすでに達成している当院の次の目標として,脳卒中リハビリテーションの比率向上と病院を脳卒中でブランディングすることを私に提案してきたことがあった。名案だと思った私はこれを白川重雄会長に上申し,彼らの提案をプレゼンする中継役をしたことがある。白川重雄会長はこれらの案をご採用になり,いまや21病院2,884床を誇る生和会グループ全体の取り組みの1つとなっている。フラットな組織を構築できている証左である。
なお,私が大切にしている最も基本的なスタンスはポジティブシンキングであるが,これはトップに限らず,仕事にもプライベートにも根本的な技術である。悲観主義は習性であり,楽観主義は習得可能な技術である〔ここでは詳しくは述べないが,フランスの哲学者アランの『幸福論(Propos sur le bonheur)』(1925)や,ポジティブ心理学を提唱した元米国心理学会会長マーティン・セリグマン『Learned Optimism(邦題:オプティミストはなぜ成功するか,1991)』などをおすすめしたい〕。
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病院経営の右も左もわからない状態から悪戦苦闘して,五流のケアミックス病院から一流の回復期リハビリテーション病院になっていった経緯をまとめ,そこから得た経営トップの考え方について紹介させていただいた。今後病院長の重責を担われる先生の一助になれば幸いである。
■文献
1) 石川秀雄:脳梗塞で救急搬送されたら急性期治療のあとはいったいどうなるのか? 大半の期間を回復期リハビリ病棟で過ごします.セゾンのくらし大研究,2023
https://life.saisoncard.co.jp/health/medicalcare/post/ishikawa03/ (2024年9月9日閲覧)
2) Ishikawa H, et al : Spinal cord infarction after bronchial artery embolization for hemoptysis ; A nationwide observational study in Japan. Radiology 298(3) : 673-679, 2021 [PMID : 33464182]
3) Kettenbach J, et al : CIRSE standards of practice on bronchial artery embolisation. Cardiovasc Intervent Radiol 45(6) : 721-732, 2022 [PMID : 35396612]
4) Ishikawa H, et al : Efficacy and safety of super selective bronchial artery coil embolisation for haemoptysis ; a single-centre retrospective observational study. BMJ Open 7(2) : e014805, 2017 [PMID : 28213604]
5) Ryuge M, et al : Mechanisms of recurrent haemoptysis after super-selective bronchial artery coil embolisation ; a single-centre retrospective observational study. Eur Radiol 29(2) : 707-715, 2019 [PMID : 30054792]
6) 石川秀雄,他:Focus on喀血の治療 気管支動脈塞栓術の最新動向;リアルワールドデータを中心に.内科128 (4) : 929-935, 2021
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