医薬品の治験を含む臨床試験の歴史は、より有効で安全な治療法を探究する 「科学的アプローチ」の発展、研究参加者(被験者)の人権を守る「倫理的配慮」、 そして社会実装のための「法規制・インフラの整備」という側面から形作られてきた。 以下にその歴史的変遷を概説する。
第1章 臨床試験の基礎知識とそのポイント
1 臨床薬理学の歴史(概説)
1-1 臨床薬理学の歴史(概説)
中野 重行
1.臨床試験の黎明期:経験から比較試験への転換と実験医学の誕生
医療の世界では「どちらの治療法がより有効か」を比較検討するという考え方は古くから存在していた。 医学研究の発展を振り返ると、19世紀のフランスの基礎生理学者クロード・ベルナールが1865年に出版した 『実験医学序説』が大きな影響を与えている。彼は事実をありのままに捉える「観察」と、 そこから導かれた仮説を証明する「実験」の重要性を説いており、この「真実を明らかにする」という姿勢は 現在の臨床試験の原点(こころ)となっている。
具体的な臨床試験の記録として世界最古のものは、1747年に英国海軍の若き軍医ジェームス・リンドが行った 壊血病に対する比較試験である。彼は12名の壊血病の船員を2名ずつ6群に分け、それぞれ異なる食事・条件を与える 同時比較試験を実施し、オレンジとレモンを与えられた群が1週間以内に劇的に回復することを発見した。 当時はビタミンCの概念すらなかったが、正しい結論を導き出したとされる。
わが国においても、1804年に華岡青洲がマンダラゲを使用して世界初の全身麻酔による手術を行っている。 また、1884年には海軍軍医の高木兼寛が致死的な病であった脚気に対して臨床試験を実施した。 高木は、主食を白米からパンや麦を中心とした洋食に切り替え、過去の食事による成績と比較する 「歴史的対照との比較試験」を行い、脚気による死者を劇的に減少させた。
2.科学的評価手法の確立:ランダム化、盲検法、プラセボの使用
現代の臨床試験においてエビデンスを創出するための科学的手続きとして、人間の理性が生み出した 「ランダム化(無作為化)」「二重盲検法」「プラセボ対照群との比較」の3点セットが不可欠である。
1)ランダム化(無作為化)
研究参加者を実薬群とプラセボ群に割り付ける際に、群間に生じる背景因子の偏りを小さくする目的で 無作為に振り分ける手法である。1935年に英国のロナルド・A・フィッシャーが『実験計画法』を出版して この概念を普及させた。その後、1948年に英国医学研究評議会(MRC)のオースティン・B・ヒルらが、 結核に対するストレプトマイシンの有効性を評価する際、乱数表を用いた世界初の 「ランダム化比較試験(randomized controlled trial : RCT)」を実施した。
2)盲検法の使用
臨床研究者や研究参加者の期待や思い込み(バイアス)が評価に影響を与えないように、 誰が実薬で誰がプラセボを使っているかを、研究者にも研究参加者にもわからないようにして、 両者の先入観・心理的影響(バイアス)を排除するための工夫である。 1908年にリバースが、研究参加者に治療内容を知らせない「単純盲検法」を最初に採用した。 さらに1930年代初め、米国のハリー・ゴールドが、研究者側の誘導的な質問によるバイアスの存在に気付き、 研究参加者だけでなく評価者である研究者側も盲検化する「二重盲検法(double blind method)」を考案し、 1937年に狭心症治療薬の研究として発表した。
3)プラセボの使用
薬を投与して病状が改善したとしても、それが薬の真の効果(薬効)なのか、自然治癒力なのか、 あるいはプラセボ反応(主として暗示効果)によるものなのかは区別ができない。 そのため、薬理作用のないプラセボを投与する群を設け、そこから得られる改善率を差し引くことで 「真の薬効」を正確に評価することができる。プラセボは、語源的には「患者を満足させる」という意味を持つ 薬理学的に不活性な物質であったが、薬の「真の薬効」を正確に評価する目的で、対照薬として導入された。
3.倫理的配慮の発展と国際的な宣言
科学的な手法が発展する一方で、臨床試験には「倫理」という感性の働きがブレーキとして求められるようになった。 第二次世界大戦中のナチスによる非人道的な人体実験への反省から、1947年に 「ニュルンベルク綱領(Nuremberg Code)」が採択され、研究参加者の自発的な同意の必要性が初めて明記された。 これを受けて1964年、世界医師会は人間を対象とする医学研究の倫理的原則である 「ヘルシンキ宣言」を採択し、今日の臨床研究の根幹をなす精神が確立した。
また、1961年のサリドマイド事件や、日本におけるスモン(SMON)事件などの深刻な薬害も、 医薬品の有効性と安全性を厳格に評価する規制の必要性を社会に認識させる大きな契機となった。 米国でも1979年に倫理原則をまとめた「ベルモント報告」が出されている。
4.わが国における治験環境の変遷と新GCPの導入
日本における医薬品の臨床試験(治験)の基盤整備は、医薬品の臨床試験の実施の基準 (Good Clinical Practice:GCP)の変遷とともに大きく進展した。わが国では1989年に「旧GCP」が公表された。 しかし、1993年にソリブジン事件(新薬発売後1ヵ月内に十数名の死者が出た事件)が発生し、 医薬品の安全性の確保に向けた対策が見直されることとなった。
折しも、日米欧三極による医薬品規制調和国際会議でICH-GCPが合意され、 地球規模で同じ基準で臨床試験のデータを利用できる枠組みが求められていた。 そのため、わが国でも1997年に「新GCP」が厚生省令として法制化され、翌1998年から本格的に実施された。 新GCPにより、以下の点が抜本的に改革された。
1)インフォームド・コンセント(説明と同意)の厳格化
従来の口頭同意から、文書を用いて十分な説明を行い、研究参加者の自由意思に基づく文書同意を得ることが必須となった。
2)治験審査委員会(Institutional Review Board : IRB)の機能充実と透明性の確保
治験の科学性と倫理性を重視し、研究参加者の保護を担保するための審査体制が強化された。
3)治験データの品質管理と支援体制
データの信頼性を確保するためのモニタリング(品質管理)と監査(品質保証)が導入された。 また、治験業務を支援し、研究参加者のケアと調整を担う 「臨床研究コーディネーター(Clinical Research Coordinator : CRC)」という新しい専門職の必要性が高まり、 その養成が急速に進んだ。
5.臨床試験の現状と未来の課題
現在の治験は、治験責任医師、治験分担医師、CRC、データ管理者、統計解析担当者、 治験依頼者サイド(臨床開発モニター[Clinical Research Associate : CRA]など)など、多職種が協働する 「創薬・育薬医療チーム」によって実施されている。研究参加者も単なる試験の対象者ではなく、 社会一般の人々がより有効で安全な薬物療法の恩恵を受けられるように貢献する「研究参加者(participant)」(治験の場合は「創薬ボランティア」、市販後医薬品の場合は「育薬ボランティア」)として、 研究者と共同作業を行う良きパートナーとして位置づけられている。
治験(新薬承認を目的とし、薬事法下の新GCPに従うもの)と、それ以外の臨床研究(倫理指針に従うもの)とで、 同じ人間を対象とするにもかかわらず適用される基準が異なる「二重構造」が長らく続いていたが、 2018年に「臨床研究法」が施行されるようになってからは、同じ考え方に基づいて臨床研究が行われる方向へ向かっている。
臨床薬理学が目指すのは、「標準化」(エビデンスに基づく医療[Evidence-Based Medicine : EBM])を前提としつつ、 患者一人ひとりに適した薬物治療の「個別化」を行い、「最適化」をきめ細かく行うという 「合理的薬物治療」である。人工知能(AI)などの先端技術が導入されるこれからの医療においても、 人の「理性」と「感性」のバランスをとりながら「合理的薬物治療」を確立していくことが 臨床薬理学の使命といえる。
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